「普通、ここで撮影する?」
SNSを見ていると、そんな言葉に出会うことがあります。
最近、板野友美さんの家族旅行Vlogをめぐって、ホテルの大浴場にある共用スペースで撮影したことが話題になりました。
※この記事では、板野友美さんの特性や人格を推測・評価することは目的としていません。
動画では、大浴場を利用した後の共有スペースで、板野さんがスキンケアをしたり、お子さんの髪を乾かしたりする様子が撮影されていました。
これに対して、「他の利用者もいる場所でカメラを回すのはどうなのか」といった批判がSNS上で広がりました。
板野さんは9月5日、「誤解を招くような表現となってしまい、申し訳ございません」と謝罪したうえで、この場面について「ホテル側より特別に撮影許可をいただいた上で撮影しております」と説明しています。動画概要欄にも撮影協力と特別な撮影許可についての記載があったと報じられています。(オリコンニュース(ORICON NEWS))
一方、その後の報道では、ホテル側は「館内全般に関する撮影許可」はあったものの、「脱衣所等では撮影許可は下ろしていない」と回答したとされています。(週刊女性PRIME)
現時点で、両者の認識がなぜ食い違ったのか、その詳細までは外からは分かりません。
だから私は、ここで「板野さんが非常識だった」「ホテルが悪かった」と結論づけたいわけではありません。
むしろ、今回考えたいのは、
「普通は分かるでしょ」と思ったとき、私たちは何を見落としているのか?
ということです。
「普通」は、誰にとっての普通?
人は同じ状況を見ても、
- 何が問題なのか
- どこまでが許可されているのか
- 周囲の人がどう感じるのか
- どこからが「やってはいけないこと」なのか
を、いつも同じように判断するとは限りません。
もちろん、「何をしてもいい」という話ではありません。
社会にはルールがあります。
他人のプライバシーや安全を守るために、守らなければならない境界もあります。
だからこそ大切なのは、
「どこで認識のズレが起きたのか」を見ること。
だと思うのです。
「許可をもらった」だけでは、すべてが解決しない
今回の件では、
「ホテル側から特別な撮影許可をもらっていた」
という板野さん側の説明と、
「脱衣所等では撮影許可を出していない」
というホテル側の説明が報じられています。(週刊女性PRIME)
ここで、
「どっちが嘘をついているの?」
と考えたくなります。
でも、別の可能性もあります。
「撮影許可」という言葉の範囲を、双方が同じ意味で捉えていなかったのではないか。
たとえば、
「館内で撮影していい」
と
「脱衣所でも撮影していい」
は、同じではありません。
「特別に撮影OK」
と
「他の利用客がいる状態でも撮影OK」
も、同じではありません。
つまり、
言葉の認識が一致していることと、行動の認識が一致していることは別です。
これは、日常生活でもよく起こります。
「ちゃんと伝えたのに、伝わらない」
例えば家庭でも、
「好きにしていいよ」
と言われたから自分で決めたら、
「なんで勝手に決めたの?」
と言われる。
仕事でも、
「分からなかったら聞いて」
と言われたから聞いたら、
「これくらい自分で考えて」
と言われる。
子育てでも、
「自分でやってみて」
と言ったあと、子どもが自分なりにやると、
「そうじゃないでしょ」
と言ってしまう。
こういうとき、
「相手の理解力が低い」
「相手が空気を読めない」
「自分の伝え方が悪い」
と、一人の能力の問題にしてしまいがちです。
でも、本当にそうでしょうか。
人の行動は「その人」だけで決まらない
人の行動を見るとき、
その人がどういう人なのか
だけを見ると、見落とすものがあります。
実際には、
本人の認知
+
発達や経験
+
その場の環境
+
周囲から与えられた情報
+
ルールの分かりやすさ
+
相手とのコミュニケーション
などが重なって、行動が生まれます。
だから、
「どうしてそんなことをしたの?」
という問いを、
「その人には、その場がどう見えていたのだろう?」
に変えてみる。
これだけでも、人の見方は少し変わります。
これは「何でも許そう」という話ではない
ここは、とても大切です。
「その人にはそう見えていたのかもしれない」
と考えることは、
「だから、その行動は問題ない」
という意味ではありません。
今回のように、他の利用者のプライバシーや安心に関わる場所では、周囲への配慮は重要です。
むしろ、
相手の背景を考えることと、行動の問題点を指摘することは両立できます。
「この行動は周囲への影響が大きい」
と、
「なぜ本人はその行動を問題だと認識しなかったのだろう?」
は、同時に考えられる。
これが「人を見る」ことだと思います。
ニューロダイバシティは「障害のある人だけ」の話ではない
ニューロダイバシティという言葉から、
「発達障害のある人について考える話」
というイメージを持つ人もいるかもしれません。
もちろん、発達特性や障害のある人が社会の中でどう生きるかは重要なテーマです。
でも、その根っこにある考え方をもっと広く捉えると、
人によって、情報の受け取り方や理解の仕方、得意なこと、苦手なことは違う。
というところから始まります。
だから、
「普通なら分かる」
だけで社会を作るのではなく、
「誰にとっても分かりやすいルールになっているか」
「誤解が起きにくい伝え方になっているか」
「困ったときに確認できる仕組みがあるか」
まで考えていく。
これは障害者雇用でも、学校でも、家庭でも同じです。
「人を変える」だけではなく、「環境を変える」
例えば、
「そんなこと、普通は分かるよね」
と言う代わりに、
「どこまでがOKなのか、明確にしておこう」
と考える。
会社なら、
「困ったら相談して」
だけではなく、
「このケースならAさんに相談する」
まで決める。
学校なら、
「ちゃんとやって」
ではなく、
「①ここまでやったら先生に見せる」
と具体化する。
家庭なら、
「自分で考えて」
だけではなく、
「AとBならどっちがいい?」
と選択肢を示す。
これは、誰かを特別扱いすることではありません。
人による認識の違いを前提に、ズレが起きにくい環境をつくること。
それによって、本人も周囲もラクになることがあります。
「普通」を疑うことは、人を甘やかすことではない
私たちはつい、
普通なら分かる
普通ならできる
普通なら気づく
という基準で人を見てしまいます。
でも、「普通」はとても曖昧です。
そして、その曖昧な基準から外れた人を、
非常識
空気が読めない
わがまま
面倒な人
と決めつけてしまうと、
「なぜそうなったのか」を見る機会を失います。
もちろん、社会のルールは必要です。
でも、
ルールを守ることと、人を一面的に決めつけることは別の話。
行動を指摘しながら、その人を理解することはできます。
見方が変われば、味方になれる。
それは「誰の味方をするか」という話ではなく、
人を一面的に決めつけず、行動と人そのものを分けて見ること。
「普通はこうするはず」と思ったときこそ、少し立ち止まってみる。
何が起きていたのか。
どこで認識がズレたのか。
どうすれば、そのズレを減らせるのか。
そんな視点を持つことが、誰にとっても生きやすい社会を考える第一歩になるのかもしれません。