1時間泣き叫ぶ子に向き合って気づいた「教育」と「安心」のバランス
よく言われる、「怒る」と「叱る」は違う──
怒るは感情的な爆発、叱るは教育的な働きかけ。
でもそれだけでは足りない。叱ったからといって、できるようになるわけではないから。
だから私は「叱る」とは、
- 目的を持って関わること
- 落とし所を用意すること
この2点が必要だと感じた。
怒りの奥にある、“なんとかしたい”という願い
最近、体調不良で夫がメインで育児を担っている。
夫は子どもの気持ちを読み取るのが得意だけど、軸を持ってNOを言うのが苦手。
そのため、子どもが泣き叫べば、アンパンマンを見せる、ゼリーやお菓子をあげる、夜中でもリビングに付き合う──そんな対応が日常になっていた。
しかし昨夜、深夜4時に「リビングに行きたい!」と泣き叫ぶ子どもに、私は限界を感じた。
このままではいけない。
感情的に怒鳴りたくなった自分を、なんとか踏みとどまって考えた。
わがままじゃない。「誤学習」してしまっただけ
大事なのは、子どもが「悪い子」になったのではなく、
「泣けばなんでも願いが叶う」と学習してしまっただけだということ。
誤学習したなら、学び直せばいい。
それが今回、私が「叱る」という行動を取った理由。
2歳の子に言葉で言い聞かせても、すぐには伝わらない。
だからこそ、「泣き叫んでもパパは一緒にリビングへ行かない」という行動で示す必要があった。
泣き叫びに反応しない「一貫性」と「落とし所」
1時間近く、子どもは泣き続けた。
私は眠くて限界だったけど、ずっと頭をフル回転させながら「今、声をかけるべきか?」を見極めていた。
そして、泣き声のトーンが変わり、「パパ!」から「ママ!」に変わったタイミングで初めて声をかけた。
「ママとぎゅーする?ねんねする?」
子どもはまだ「パパがいい」「ねんねしない」と言ったけれど、そこに反応しないことを貫くことで、最後は自分から「ねんねする」と言い、抱きついてきた。
「甘えさせる」と「軸を持つ」は両立できる
正直、この方法が正解だったかはわからない。
でも、私なりの最善の選択だった。
学習しなおすためには、一時的に混乱が大きくなる「再調整の痛み」が避けられないと思った。
そして、朝。
いつもはパパっ子の子どもが、私に手を出して「おはようタッチ」と言ってきた。
「一緒に行こう」と言って、手をつないでリビングへ向かった。
──あの1時間は、ムダじゃなかったんだ。
子どもも実は「叱ってくれる大人」を求めているのかもしれない
泣き叫んで願いが通る世界は、子どもにとっても不安定でストレスだったのかもしれない。
甘やかすだけでは、安心できない。
子どもは時に、「受け止められながら、止めてくれる人」を求めているのだと思う。
おわりに:叱るとは「信じること」でもある
叱るというのは、子どもを「ダメな存在」として否定することではない。
むしろ、「きっとこの子は学び直せる」「安心できる関係を築ける」と信じて待つことだと思う。
そして、泣き声の奥にある子どもの不安や願いに、耳をすませること。
昨夜の体験は、叱ることの本当の意味を少しだけ教えてくれた気がする。